フラワーアーティスト・田村恵子(たむらけいこ)がお届けする絢爛豪華な花(はな)の世界…数々の発表された過去の作品をご紹介いたします。田村恵子の作品は詩仙堂グループの各店舗にてお求めいただけます。店舗へご来店ください。また、お問い合わせはメールにてお願いいたします。
解説●田村恵子の花─さとうてつや
2003年、角川書店より発行された「贈り花」において、Keiko,T(田村恵子)の花を解説されたさとうてつや氏の記述をご紹介いたします。 山口県岩国に生まれ育ち、明治・大正・昭和を駆け抜け自由を求め続けた作家・宇野千代。NHKの連続テレビ小説「ブラッサム」のモデルとして注目を集めている彼女の生き様に重ね合わせて、Keiko,Tの魅力を表現されています。
「錦帯橋を渡るとき、橋の袂で、僅かの渡し賃をとられる。(中略)橋の中ほどに立ったとき、川と橋と山とがひとつの絵になっているのを見る。私には、この橋を自慢する町の人の気持が分るような気がする。」(宇野千代「故郷の家」)
川と橋と山とが一つの絵になっている町、作家宇野千代が生まれた町、山口県岩国。ここで田村恵子は生まれている。宇野千代はここの岩国高女の出身だが、田村恵子もいまは岩国高校になっているこの学校の卒業生である。つまり宇野千代の後輩にあたる。
田村恵子が通っていたころ、木造2階建ての岩国高校は、錦帯橋を渡った岩国山の山裾にあった。いまは公園になっているところである。高校生時代、錦帯橋を渡って、渡り終えたところから、500メートルもない高校に彼女は通っていたことになる。「川と橋と山とが一つの絵になっている」光景の、四季折々の移ろいを、日々見続けたわけである。
田村恵子の花の特徴のひとつに、〈立体性〉があげられる。たとえば元来は丸みが特徴のブーケだが、彼女のブーケには、表面が平坦に丸くなっているものがほとんどない。いずれも起伏に富んだ凸凹が、豊かな表情を見せている。大輪のバラのとなりに木の実があったり、折りたたまれた大きな葉の脇に乾きものがあったりして、ダイナミックな踊りにも似た起伏をかたち作っている。
この立体性は、どこからくるのか。
機会があって岩国を訪ねたとき、それは錦帯橋周辺が紅葉の盛りのときであったが、田村恵子が高校生時代に、渡って通った錦帯橋に立ってみてはじめて、見えてきたものがあった。
そうなのだ。
田村恵子の花は「川と橋と山とが一つの絵になっている」この光景を、ブーケやテーブル花に移したものなのだ。だから立体的に溢れてくるのだ。
感受性のいちばん鋭い高校生時代に、いわば皮膚感覚としてこの立体感を身につけてしまったので、自分ではそれと意識していないのに、田村恵子の花は、いつか知らず山の木にならい、川の水を映し、橋の曲線をなぞらうものになっている。
岩国山を前にした錦帯橋の風景は、京都の嵐山を前にした渡月橋の光景に似ている。つまり日本の風景そのものだ。だから田村恵子の花は、かたちはまったく洋風なのに、和風の香りを漂わせるものになってくるのだろう。
田村恵子の花を育てたものは、岩国の風物であり、岩国の四季だといえる。作家宇野千代の文学が、岩国を抜きにしては語れないように、田村恵子の花も、岩国を抜きにしては語れない、そう思われる。
田村恵子の花を育てたものが、もうひとつある。男である。この点もまた「宇野千代」に似ている。
「宇野さんの感情教育において、男の果した役割の大きさは、宇野さん自身くり返して語っておられる所ながら、他者である男をここまで生かし切れた秘術にこそ宇野さん成熟の秘密がひそんでいるに違いない。佐伯彰一「宇野千代における成熟の秘密」
宇野千代は、華麗な男性遍歴を重ねた作家である。著名な男たちだけでも、作家尾崎士郎、画家東郷青児、作家北原武夫と数えられる。いずれも一流の男たちである。
この見事としかいいようのない男性遍歴が、宇野千代の文学を育てたわけだが、田村恵子の花についても、これを育てたのは男であるといえるのではないか。もちろん、彼女の男性遍歴が華麗だというのではない。
彼女にとって男性は、ただひとりしかいない。この男性ひとりの存在が、宇野千代における男性の存在に匹敵している。夫君である。自らデザイナーとして、国内210店舗、海外5店舗(2002年3月現在)を展開する、『詩仙堂』という著名なファッションブランドを率いている。
「この語り方が見合つてゐるものは、作家が重ねて来た生まな恋愛経験ではなく、言はば、その育成され、純化され、信じられた恋愛観念なのである。」小林秀雄「感想」
宇野千代の文学について語っている小林秀雄の指摘が、ちょうどこの田村恵子の花にもあてはまる。作家の創造性を形成するうえで大事なことは、男の数ではないのだ。男の質であり女の質なのだ。
田村恵子のなかで、新しい花は、ある日忽然として花を開く。忽然という言葉を使ったが、まさしくそれは突然のことだった。あらかじめ花による表現の場を持っていたわけではない。花を仕事にしようと人知れず努力を重ねてきたというものでもない。花は突然開いたのだ。田村恵子がはじめての花屋をもったのは、つい数年前、大学に入った子供に手がかからなくなり、夫と共に経営していた会社の経理の仕事にも一息がつけるようになってからである。四十の坂を過ぎていた。
田村恵子の花は、生け花にも似ていない。フラワーアレンジにも似ていない、きわめて独自性に富んだ花だが、このユニークさは、遅い旅立ちがもたらしたという面とともに、花開くそのときまで、個性的なデザイナーとして夫の仕事を、そのかたわらで、長年にわたって見続けてきたことがもたらしている。下手にデザインにかかわらなかったのがよかったのだ。美について直接に教えを受けなかったのがよかったのだ。美を追求する夫の熱い思いが、そばで黙って見ている彼女のなかで、鈍化され、信じられる時間が必要だったのだ。かたわらでじっと夫の仕事を見続けて、自分もまたなにか創作してみたいという激しい思いを、心のなかに、時が来るその日まで、秘めて、矯めてきたことが、田村恵子の花に独自性と、爆発するような勢いを与えている。
田村恵子の成熟のために、男の果した役割の大きさが、おのずと見えてくるというものである。美を創造する男の生き様を、かたわらで黙ってみつめること、男の背中を見続けること、それが田村恵子の花を育てたのだ。だから、結果的に夫は一人で、田村恵子の感情教育を、巧まずしてやりおおせたのではないか。宇野千代の感情教育を、数人の男たちがやったように。
つい最近、彼女は新しい花の店を東京銀座の6丁目に開いている。この店の一筋裏の5丁目に、戦後まもなくの一時期、宇野千代が服飾雑誌を主宰していたスタイル社があった。目と鼻の先である。宇野千代は、故郷の美の後輩田村恵子を、高校ばかりではなく、ここ銀座にも呼び寄せたのだろうか。